そらとぶくうどう。

ベリリウムの電脳スペース。空飛ぶ空洞のブログです。

ラーメン屋で本を読めない。

きちんと文章を書いた方が良い。言葉にした方が良いと感じさせる出来事があった。

社会人になって日々を送っていると自分の時間の使い方、快楽や苦痛に反省が無くなってくることも今回やっぱり文章を書こうと思った理由のひとつだ。

なので、久しぶりにブログを再開し長文(といっても120文字より長いくらいのもので、大げさなものでは無いのだけど。)を書くことに挑戦しようと思う。

 

下記は今年の帰りの新幹線で「自分の中で考えていることをできるだけ言葉にして捉えてみよう。」と思い立ち書いてみた。結局完成するまで1か月以上寝かせてしまったので、記憶も薄れてしまい、書いていた時の熱も失くしてしまったので内容や表現は補筆、修正することにした。(書いていた時は書き上げてそのままアップしようと考えていた。)

 

タイトルは、「ラーメン屋で本を読めない。」

ところで自分が過去に記したブログを読むのがこんなに恥ずかしいとは思わなかった(しかも電脳の海にいつまでも残っている…)が、大人になった後皆さんはこうしたブログとどういった距離感と感情で相対しているのだろうか。疑問だ。

文体などもどうしたものやら…統一感があまり無く、我ながら辟易する。

 

僕はラーメン屋で本を読めない。

新大阪から新横浜に向かう新幹線の中、昼御飯に何を食べようか考えていた。着いたら12時手前だろうから行列に並ぶ前に入れる店が望ましい。昨年、食べる機会を逃してしまった日高屋油そばか、年末に食べた洋麺屋五右衛門にもう一度行こうかしらと思った。
連れていったスーツケースが 一週間分の荷物は入る大きなものだったので、席に座ってしまうと窓側の席の乗客はトイレに出るのに苦労されるだろう。購入したチケットは自由席だし、折角の大きな筐体なので乗車口近くの壁に押し付けて椅子として活かして腰かけていた。進行方向に対して乗車口のドアは左手。富士山が見える位置だった。静岡を過ぎて暫くすると青空と一所に映る富士を一目見ようと母親と娘、若い男性がのっそりこちらに来てスマホで写真を撮って帰っていった。僕はその行為によって、その時その富士山のすぐそばを駆け抜けていることに気づいたのだった。
グレートギャツビーの一章を読んでいて、言葉遣いから想起された風景を味わうと同時に、こうした想像力を掻き立てて本を読むのはいつぶりかと少し感動した。
新横浜に着く頃には腹が減っていたのだろうか。五右衛門も日高屋も混んでいたので止めた。代わりに、つけ麺を食べた記憶がある舎鈴というラーメン屋に入った。席に通されラーメンを注文すると店員に「時間を頂いております。」と言われた。食べたかったので承諾した。
 
ふと、こうした文体でメタ視点やじぶんの気持ちの棚卸しができるのだろうかと疑問に思った。もう少し心情や気持ちは織り混ぜて書いても良いのかもしれない。事実だけを主にするのであれば、箇条書きでいいのかも知れないが、それでは文章に磁味というか、奥ゆかしさのようなものが一つも感じられず、少し寂しくて嫌に感じる。車内で読んだフィッツジェラルドのように滑らかで優美な表現でも追究したい心持ちなのだろうか。
 
ラーメンを待つ時間は苦では無かった。後ろに予定がないし、比較的待ち時間無くすんなり入店し、注文できたことにそもそも満足していたのも大きいかったように思う。待つ間に本の続きを読み進めようかと思ったが、結局皆が黙々とラーメンを食べている前で読む気が起きず、鞄から取り出してすぐ元に仕舞いこんだ。その時、僕はラーメン屋で本が読めない人間なのだと分かった気がした。 
カウンターの角席で対角に男の客が憮然とした顔でつけ麺を啜っているのを見ていたので、こいつの前で読みたくないのかも知れないなと考えた。 その男が会計を済ませて出てった後に頭頂部の毛がうっすらとした細身の中年男性が入ってきた。彼が頼んだのはラーメンの大盛りだった。彼も同じように店員からラーメンは時間がかかると言われていた。そして、彼はラーメンができるまでは時間がかかるからだろう、革色のブックカバーを着せた単行本を鞄から取り出して読み始めた。彼はラーメン屋で本が読める人なのだ。僕と彼の違いは何なのか、少し気掛かりに思った。暫くして自分の前にラーメンが置かれた。舎鈴のラーメンはとても美味しかった。ラーメン屋で本が読める彼の前にもどんぶりが置かれた。彼は本を仕舞うのではなく、開き、読みつつラーメンを啜っていた。本が汚れてしまわないだろうかと少し気になった。食事をしながら本を読むことは自分もやったことがあるのだが、そんなに急いで読まないといけないのだろうか。僕であれば、数行読み進めて、ラーメンを一口啜り、その一口を咀嚼しつつ本を読み進めても、何にも理解できないし、文章の奥ゆかしさを味わうこともできないだろう。もしくはラーメンを食べながら読むに相応しい、ないしはラーメンを食べながらでも読める内容の本なのかも知れない。とにかくも僕にはできなかった行為を目の前で見せつけられ、歴然とした差を感じた。僕には向いてない行為だと一旦理解したが、その差は一体なんだったのだろうか。人?本?はたまた、ラーメンなのか。