そらとぶくうどう。

ベリリウムの電脳スペース。空飛ぶ空洞のブログです。

古市憲義著、『僕たちの前途』その1

古市憲義著、『僕たちの前途』を読んでいる。

この本を読もうと思ったきっかけは二つ。

一つは古市という社会学者の名前に覚えがあったから。

大変若い学者さんでNHKのテレビで姿を拝見したことがあったように思う。

そしてもう一つには僕が「起業」について興味を持っていたからだ。

 

大学の図書検索サービスで「起業」と打ち込むと、この本のタイトルが浮いていた。

僕はとりあえず手に取って読むことに決めた。

まだ全てを読み終えてはいないが、この本の前半三章分はそれぞれ3人の起業家(起業家とは言わないほうがよいのかも)のこれまでの経歴とその経緯に焦点が当てられていて、どれもおもしろく読むことができた。

おもしろく読めた理由は、著者が彼ら三人の経歴や経緯を「成功者がなぜ成功したのか」や、「彼らはどうしてその変化(起業も含む)に至ったのか」などの最もドラマチックな点を描こうとしていないからだ。

 

どの方も若くして成功した傑物だ。

そして、人々はふつう彼らのようないわゆる「成功者」と呼ばれる人たちにはその成功を支える「なにか」があると思いがちだ。

しかし、この本の中で著者はその「なにか」を描こうとしていない。

なぜならばそれはその「なにか」が本質的には描けないものだからだ。

 

人は複雑な因果関係から現実で一つの結果を得る。

そしてこの因果関係にはある個人が今まで積み重ねた時間の流れが含まれる。

こうした流れが糸のように絡みあい一つの結果を現実にもたらすのだとすれば、これをたった一つのドラマチックな点や一つの大きな契機として描くことも、ある一時点における環境や能力、状態や動機などの様々な要素に分割して描くことも、どちらも不可能だ。

つまり、ある結果の原因は本質的に現在から過去を見返す反省の視点から「なるべくしてそうなった」としか描けないものだと言える。

 

だからこの本の中の傑物達は自然と変化(起業)することになる。

起業は彼らの日常、やりたいことや専門性の延長でしかないのだから、「続けていたら、そうなった」というかんじだ。

 

ところで僕が起業に興味を持っていた理由は、僕の中で未来に漠然とした不安があり、自分の今までの生き方を省みると、企業で働くことに積極的な意味を見出せなかったからだ。

「雇われて働くことで自分の好きなことができなくなるのではないか?」

「雇われて企業の中でで働くよりも自分の好きな仲間と働いた方が楽しいのではないか?」

「先があるかも分からない企業で働くよりも自分で事業を始めた方が未来が明るいのではないか?」

 

 

しかしこの本を読んで起業はすっかり諦めることはできた。

理由は三つに分けられる。

まず、僕には社長や経営者になってやろうという野心なんてない。

僕は野心があって起業したいと思っているのではない。あくまで企業に雇われることの否定として起業を考えていた。

 

もう一つは僕のやりたいことと起業とは直結していない。

僕は起業したいと思って起業に興味を持ったわけではない。起業の中身と僕のやりたいことが直結していなければ、雇われていようといまいと僕のやりたいことはできないだろう。

 

最後に、僕には専門性がない。

僕には確実に結果を残せる能力がない。起業という選択肢が僕の人生の中でなにかの延長として現れるのであれば、それは僕がいま現在続けていることの専門性に依るところが多いだろう。僕には結果を残せる専門性がまだ身についていないため、起業なんてもってのほか、おとぎ話だといったかんじだ。

 

以上の三つの理由で僕は起業をすっかり諦めた。

しかし本に出てきた傑物のように「続けていたら、そうなった」を実現するためには、なにかを続けて、その技を磨き続けることが必要なのだろう。

才能や経歴、動機も関係するのかも知れないが、どれも十分でない僕にとってはこれはあまり参考にならないし、すべきでない。

だから今はとにかく、やりたいことを何年でも続けて自分の専門性を磨きたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

入間人間著、『電波女と青春男』 その1

僕が初めて藤和エリオと出会った時はテレビ画面の上だった。

OPが強烈だったことは記憶しているが、

思い返せば思い返すほどどうして見ていたのかは思いだせない。

 

「エリオがかわいい」の一心で見ていたのだとすれば

二次元美少女好きだから成せる業の深さを痛感する。

しかしながら業は今も目の前でどさどさと積まれているので

僕の痛感に反省を促す力はないようだ。

 

真人間の僕はラノベをしっかり読んだことがないのだが、

友人に借りたこともあってこの本はしっかり読んでみた。

まだ2巻までしか読み終えてないが、

現在の自分と重ね合わせて共感できる部分も多く、なによりおもしろい。

 

遊んだ言葉遣いとストーリーの極端さ、そして心理描写の分かりやすさが

難しいことはよくわからない僕の頭にぽつぽつスーっと染み込んで、

イイ感じだった。

 

ところで僕はyoutubeにあげられているこの動画が大好きだ。

編集のタイミングがバツグンで、見ていてゾクゾクする。

本やアニメを知らない人が、この動画を見て藤和エリオに惚れてしまったのなら

明日から業を積むことを覚悟しなければいけないよ。

 

https://www.youtube.com/watch?v=Nj598NpOxvA&list=PLHGgsMFeu8OZkvr6g2Th_E_O1e3zgOiTo&index=75

 

 

 

 

 

 

”エイプリルフールの日についたウソは実現しない。”

エイプリルフール2014 

”エイプリルフールの日についたウソは実現しない。”

 

と、今日友人から教えられました。

 

 

ところで、偶然にもこの文章をよんでおられるみなさん方には

文章の「今日」という部分がウソなんだとか、

だいたいこの文章全部がウソなんだとか、

お前の友人の存在がウソなんだとか、

ウソを疑う方法がいくらでもありそうですね。

 

しかし、こんな風にブログの中でさえ人を疑うのは心苦しいですね。

ではこの猜疑心から抜け出すにはどうすれば?

 

「そもそも俺にはお前の文章を信じる必要も根拠もないのだから、

お前がウソをついていよーがいまいが関係ない」

 

「俺はお前の文章を読まない」

 

「俺ははてなブログなんかやってない」

 

「実は、俺なんかいない」

 

 

”エイプリルフールの日についたウソは実現しない。”

 

 

 

 

読んで頂き、ありがとうございました。

おかげで、読んで下さった方の存在を感じることができました。

 

寛容と無関心

寛容と無関心
 
寛容と無関心は違います。
興味のあることに対してこだわりがない人がいます。「まぁなんだっていいよ」と言えてしまいます。このような人はその興味に対して無関心です。
こうした無関心な人々は他人や友人のいうことなすことを気に留めることなく許せてしまうため、よく「優しい」だとか「心が広い」とも形容されます。
しかし私見では、彼ら彼女らはそうした他人や友人のいうことなすことに対して鈍感である、もしくは最初から無関心であるだけだと思っています。
彼ら彼女らは他人や友人のいうことなすことをある程度気にしません。なぜならば最初から一線を引いて、これ以上は踏み込まない、ある程度最初から無視するつもりであるからです。その領域には無関心であるからこそ、なんでも許せるのです。
しかし言葉を変えれば、これはある程度他人のことがどうだっていいだけです。
僕は長いあいだ。こういった無関心を寛容と勘違いしていました。
 
寛容というのは無関心とはちがいます。
あんまり怒らない人がいます。僕もそういう人で、自分のことをわりかし寛容な人間だと捉えて来ましたが、それは違います。
自分はもちろん、そういう怒らない人々ははなからこだわっていないのです。
つまり、怒る必要がないから怒らないだけです。

はじめまして。

京都で学生をしている男です。

趣味は広く、浅く、くだらなく、てきとうに

絵を描いて音楽を作ります。

 

文章を書くことが苦手なのでその練習として

忘れっぽいので日常の記録として

そして自分の活動の報告の場として

よしなしごとを書いていくのでよろしくお願いします。